読書空間 ひつじ日和

浜松市の小さな書店です

須賀敦子「地図のない道」

 
どうということのない話から始まって、たまにぴょんと飛びますが、また戻ってきます。
それがすごく心地よく、それでいて心もとない感じがします。
 
不安定な所に立っているけれど、でも安心感も一緒にある。
 
観察力、言葉の選び方、表現の仕方、どれも心地よさと不安定さに繋がっています。
 
 
ベネチアにもリドにもトルチェッロにも行こうと思ったことはないのですが、この本を読んで、いつか行くべき場所だと思いました。
 
 
特にトルチェッロはのんびり歩いてみたい。
この本を片手に。
 
 
 
須賀敦子「地図のない道」
 
 
 
歴史的な景観でもっているこの島の人たちは、なにをするにも、便利か便利でないかという観点は埒外におきたがる傾向にある。
 
 
あっちへ行ったり、こっちへ来たり という表現をベネツィアの人は、「上がったり、下ったり」という表現をよく使う。いかにも忙しそうには聞こえるが、坂もないのにどうして上がったり、下りたりなのだろうと、ずっと疑問に思っていた。その疑問がだんだん解けてきたのは、いつごろのことだったろう。たとえ小さな橋でも船が下を通れるように反り橋になっているから、橋を渡るたびに、階段を「上がっては、下りる」ことになる。
 

どこの国語や方言にも、国や地方の歴史が、遺伝子をぎっしり組み込んで流れる血液みたいに、表面からはわからない語感のすみずみにまで浸透していることを、ふだん私たちは忘れていることが多いし、語学の教科書にもそれは書いていない。だから、よその国やよその都市を訪れたとき、なにかの拍子にそれに気づいてびっくりする。その土地では古くからいい慣わされていて、だれもそれについてなんとも思わない場所の名などが、旅行者にはひどく奇妙にひびきことがあるのも、そのためだ。小さいときからそれを聞き慣れている人たちにとっては、まったくなんでもない言葉や表現なのに、慣れないよそ者は目をむいて立ち止まる。
 
 
 
 
 
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