縄文ZINE編「土偶を読むを読む」

 

ここのところ情報に振り回されているな、と思うことが多くなってきたような気がします。
センサーやシミュレーションの精度が増し、簡単に予測ができるようになったことも大きいのですが、それが大きく外れることもあります。
世の中は様々な要素が複雑に絡み合い、すっきりとした答えなんてないのでしょう。

 

「土偶を読む」も明快な答えと大きなものへの批判が多くの人の共感を得たのでしょう。土偶や縄文時代への知識を一切持たない人間としては、その可能性もあるかも、と思ってしまいました。
「土偶を読むを読む」を読むと、それがいかに浅はかであったかを思い知ります。
そして「土偶を読む」に対する哀しみがひろがります。
自分の無知を思い知るとともに著者や出版社に対して怒りのような感情すら持ってしまいました。

でもそれはお門違いでしょう。
こうやって「土偶を読むを読む」のような本にも出合うことができたのですから。

 

福岡伸一ハカセが言っています。
「知的であることの最低条件は自己懐疑である。」
この言葉がぴったりの事例でした。

 

縄文ZINE編「土偶を読むを読む」

 

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