福岡伸一「もう牛を食べても安心か」

 
もうほとんど忘れ去られている狂牛病問題。
献血するときにだけは、まだなぜかしつこく訊かれます。
 
人間は自然界をコントロールしようと思うけれど、それはとんでもない思い上がりであり、
その結果がまた人間に(時に悪影響として)還ってくる。
全てのものが繋がっていて、平衡状態を保とうとするからです。
 
狂牛病しかり、鳥インフルエンザしかり、原発しかり。
 
様々なことが、小さいコミュニティで生産消費するような仕組みは出来ないのでしょうか。
 

 

人間の叡智を集めれば可能だと思っています。

 

 

福岡伸一「もう牛を食べても安心か」



 

鴨長明「方丈記」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」

 

食に対する伝統的な言い伝えを調べてみると、しばしば”できるだけ遠いところのものを食べよ”という教えを見つけることができる。これは情報の干渉をできるだけ避けよう、とする心がけと理解すれば、消化の生物学から考えて合理性がある。消化システムは万全を期しているとはいえ、その関門をリークして(すり抜けて)やってくる「負の情報」が存在するからである。

 

第一に必要なのは、環境が人間と対峙する操作対象ではなく、むしろ環境と生命は同じ分子を共有する動的な平衡の中にあるという視点である。炭素でも酸素でも窒素でも地球上に存在する各元素の和は大まかにいって一定であり、それが一定の速度で流れゆく中で作られる緩い"結び目"がそれぞれの生命体である。流れはめぐりめぐって私たちに戻ってくる。
第二に必要となるのは、できるだけ人為的な組み換えや加速を最小限に留め、この平衡と流れを乱さないことが本当の意味で環境を考える-すなわち私たち自身の生命を大切にする-ことに繫がるという認識である。
もし私たちがこのような認識の旅を続けているとすれば、それは長い時間を要することになろうが、やがて狂牛病は世界の果てのごくかぎられた場所に封じ込められた風土病に還り、人々の記憶から消えていくことになるはずである。

 

読みたい本
「生み出された物語 目撃証言・記憶の変容・冤罪に心理学はどこまで迫れるか」
山本登志哉編著 北大路書房

 

 

 

読書空間 ひつじ日和