(浅間山)
何かをしっかりと受け取るには時間が必要なことがあります。
そのタイムラグは大きいほど、深い気づきや癒しを与えてくれる気がします。
見えなかったものが見えてくる面白さは、生きる喜びにもなります。
長野の暮らしを経て、浜松に戻り随分経った頃のこと。
美術館のある作品の前で立ちつくしました。
浅間厳冬
いろいろな意味で軽装備だった自分が笑えてきました。
その作品が気にかかり、後日図書館で堀文子さんの画集を探しました。
それは軽井沢にアトリエを構えていた頃のものでした。
堀文子さんがどんな方だったのか知り、さらに背筋が伸びるような思いに包まれました。
軽井沢時代の堀さんの言葉に触れたくなり「ホルトの木の下で」の中に見つけました。
〈零下二十度にもなる極寒のとき、白雪の浅間が神の座となるのを見た。人跡絶えた冬、狐と冬鳥を友として、一人山中で暮らした軽井沢の暮らしは、生きては死に、また次の命の糧となる自然の姿を見せ、永劫の命の流転を私に教えた…〉
この古本にはいくつか線が引いてあり、何かを求めた誰かが他にもいらしたことがうれしかったです。
堀文子「ホルトの木の下で」
読書空間 ひつじ日和